三章
 夏越の祓えから十日が経った。月夜はいつものようにバスに乗って学校に向かっていた。
珍しく夕香もその隣に居て普通の日常の一コマに身を置いていた。だが、それもすぐに崩
れた。
 ぐらりと月夜の体が傾いだ。夕香が支えると月夜は青白い顔をしていた。酔ったのかと
思ったがそれとは違う何か深刻な雰囲気を出していた。
「降りるぞ」
 言葉少なげに言うと月夜はよろめきながらもバスから降り夕香を連れて近くのベンチに
座った。
「どうしたの?」
 流石に茶化す気分にならなかったので何も言わなかったのだが、その雰囲気が異様だっ
た。
「ヴィジョンだ」
 低い声に驚いた。一瞬意識が空白になった後少し欠けて記憶を引きずり出すと夕香の顔
色も失せた。
「嵐が?」
「ああ」
 一つ頷くと溜め息を吐いて術を使って寄宿舎に戻った。そして教官室に入ると愕然とし
た。
「嵐は異界任務中だ。狸を連れてな」
「なぜ、あいつは術が」
「あれが望んだ事だ。助けに行くか? 規則違反で」
 組んでもない他人が他人の任務に手を出すのは原則禁止とされている。
「行きます」
 静かに宣言すると教官室のど真ん中に異界へと続く扉を開いた。夕香も据わった目をし
ている。窮地に陥った時の肝の据わり方は二人とも同じのようだ。扉に身を踊らすと月夜
と夕香は制服のまま異界に入った。
 ブレザーが風を伴なってはためき月夜のネクタイがゆれる。夕香のスカートが半ばめく
りあがっているがそれどころではない。二人は互いに目配せあって頷き同じ方向に走り出
した。月夜が夕香の一歩先を走り夕香を案内している。鼻が告げている。嵐の血の臭いを。
 気を急いていくと、そこには蹲ったまま動かない莉那とその目の前に立ちふさがる一匹
の銀狼を目にとめた。
 銀狼の右後ろ足は血に濡れ紅に光っている。狼の妖力に引き摺られているのか月夜の薄
い唇の端からそれぞれ犬歯が覗いている。
「たぬは?」
「気絶しているだけだ。だが……」
 行くべきか行かないべきか迷っているらしい月夜に夕香はため息をついた。
「あたしもあいつに助けられてんの。あたしだってあいつの事助けたいけど、あたしには
無理だよ、あれは」
 視線で示されている銀狼とにらみ合っている黒い妖狐を見て月夜は覚悟を決めた。そし
て良いかと視線で問う。夕香はしっかり頷くと銀狼と妖狐が動き出すのを見、同時に動い
た。
 夕香は莉那のもとに。月夜は銀狼である嵐の援助に。夕香は倒れ伏している莉那を抱き
かかえて安全な場所に寝かせると振り返って月夜を見た。月夜もいきなり術をかけずに嵐
を抱えて脇に飛び退っていた。そして、嵐を夕香のほうに放り投げると黒狐の目の前に降
り立った。尾は八つ。九尾ではないがそれでも強いランクに入る。
《てめえ》
 嵐がキッと犬歯を剥き出して唸った。飛び出そうとしていた故に反射的にその長い尻尾
を引っ張ってしまった。キャンという吼え声を上げて嵐は夕香の方に飛び退った。
《なにやってんだ、お前らは》
 怒っているように聞こえるのは月夜と夕香が理を犯した事に対する憤りだろう。お小言
は後で貰うから黙ってなさいと傷を癒し、莉那の具合を見た。これといった物はなくただ
気絶しているらしい。狸が得意の狸寝入りだろう。そう思って一息つくと月夜を見た。苦
戦なんかせずにすぐに祓えそうだった。
《おい》
 嵐が急に飛び出した。尻尾を掴もうとしたがそれをすり抜け獲物を見つけた獣の如く嵐
は月夜に飛び掛る。月夜の背に野狐の爪が迫っている。引き伸ばされたような時間の中に
灰色の塊が自分に飛び掛るのを月夜は確認した。そして紅が視界を彩った。
 そして気づけば嵐が上に乗っていた。狼の体ではなく人形に戻っている。月夜が下敷き
で仰向けだった。そして月夜の上で嵐はピクリとも動かずにその体を一回り小さい月夜に
預けていた。紅の正体に気付いた月夜は嵐を退けて起きて驚いた。
 そこには首を失いヒクヒクと痙攣し、赤黒い血をぶちまけている肉色をした傷口をもつ
胴体と、驚愕しか目に宿していない黒い野狐の首の姿があった。むせ返るような血の臭い
の中、月夜と嵐は倒れていた。
「おい、嵐、おきろよ」
 嵐を抱き起こして揺すった。左の胸の脇から左の脇腹まで縦にざっくりと斬れていた。
白い骨が見せそうなのは気のせいか。朱が月夜の手を彩っている。
「おい、なあ」
 月夜らしくないが、動揺しているらしい。夕香は近寄ってどうしようかと視線を彷徨わ
せた。そして、月夜はうつむいてわずかに震える声でつぶやいた。
「わりい、夕香。一発叩いてくんねえか?」
「誰を?」
「俺」
 間髪いれずに答えられたその言葉に遠慮なくと答え思い切り月夜の頭を叩いた。動揺し
ているからと言って叩いてくれというのは不明だが、彼がそうしてくれというという事は
そうすればいつもの彼に戻るのだろう。ぱしんと、聞いていて小気味良い音があたりに響
き渡った。月夜は動かずにただ体を振るわせた。
 その痛みに顔を歪ませながら深く溜め息をついて開いている方の手で頭を掻き、嵐を地
面に寝かせ呼吸を確認した。
「中のほうまで切れてないか。ならばまだ大丈夫だな」
 いつもの月夜に戻り、夕香はためいきをついた。本当に元に戻った。夕香の叩きは良い
薬の様だ。そして月夜が何をしようとしているかを悟って驚いた。
「あんた、医療術」
「使えるさ。たりめーだろ。伊達にこいつの幼馴染やってるわけじゃねえし」
 そう言うとこいつには敵わないがと置いて右腕に神経を集中させた。空気が動き月夜の
力が嵐の治癒力を促進させる。傷に薄皮が張り、出血が止まった。その頃になると嵐はぼ
んやりと宙を見上げていた。
 そしてある程度できたところで嵐は月夜の手を振り払っていささか不機嫌そうに自分で
治癒術を施した。一瞬で傷がなくなる。そして一息を吐いて心配そうに覗き込む月夜の横
面に思い切りこぶしが入った。
 しゃがんでいた為、受け身も取れず月夜はごろりと横に転がった。そして月夜は一拍遅
れて飛び起きた。
「てめえ、何しやがる?」
「それはこっちの台詞だ。何で、任務に手えだした」
 嵐は怒りを露わに怒鳴った。冷静そうな月夜もそう気が長い方ではない。静かに怒気を
はらませて月夜は言った。
「何しようとしていた? あの狸のために死のうとしていただろ?」
「そんなの俺の勝手だろ?」
「じゃあ、俺がこいつのために死のうとしていたらお前はどうしていた?」
 静かな声音に嵐は黙った。月夜は肩を怒らせて溜め息を吐くと目蓋を閉じた。そして噛
み締めるように呟く。
「同じ様に止めてただろ?」
 その言葉に何かいいたげに嵐は月夜を見つめる。そして口を開き低い声で唸るように言
った。
「俺とお前は……」
「だからなんだってんだ」
 月夜が激昂した。その激しさに夕香は驚いた。ここまで感情を露わにする月夜は見たこ
とない。
「いいか、俺は俺の勝手でお前を助けた。それだけだ。俺だって、こいつだってお前を助
けたいって思ったからこんな格好でここまで来たんだ」
 半ば中が見えている夕香のスカート姿を差して捲し立てると深く息を吐いて視線を落と
した。そして今までとはうって違う低く小さな声で呟いた。
「……俺にだって、お前を助けたいって思う気持ちぐらいあるんだよ」
 その言葉に嵐は言いたい事を我慢するように唇を真一文字に引き締めた。そして深い溜
め息をついた。
「都軌也」
 そのイントネーションが僅かに違う事に夕香は気付いた。首を傾げると茶色い物体が横
切るのを視界の隅で確認して溜め息を吐いた。
《狼さん》
 茶色い物体は莉那だった。狸の姿のまま嵐に飛びついたのだ。少し遅れて莉那の姿に成
り代わり抱きついて大きく背中を震わせ始めた。月夜はそれを見ていささか驚いたような
顔をしていたが溜め息を吐いてその場から退いた。
「狸」
 胸で泣きじゃくっている莉那を見て嵐は驚いた顔をしていたが自分も泣きそうな顔をし
て莉那を掻き抱いた。
「これで一件落着ってとこか」
「次にあたしたちの処分ね。教官がもう考えていると思うけど」
 まだ、初めてだからそう重い処分は下されないと思うけどとぼやいたが胸の中で警鐘が
鳴り響いている。月夜もそうだろう。軽く拳を握り締めて伏し目がちでいた。その手の甲
にそっと触れて目配せをして頷いた。
「悪いな」
 月夜は苦笑気味に言うと深くため息をついた。空気が動いたと思い際、黒い穴が虚空に
穿たれその中から教官が一人出てきた。
「藺藤、日向」
 静かな声音に怒気をはらんでいる事に気付いて姿勢を正した。真正面で向き合い教官を
じっと見上げる。
「……理を犯したな?」
「はい。どんな処分でも、受けます。こいつ等は悪くないです」
 静かな口調に静かな口調で返した月夜は教官を見据えて言った。夕香も頷き、じっと見
つめた。教官は深く溜め息をついてまた仕事が増えたなとぼやいた。
「処分を下す。まず、四日の謹慎処分。そして四日経った後、危険度上位に指定されてい
る水神の杜の中心に行き、戻ってくるのを、一週間でやって来い」
「森の中心という事は水神沼の方まで?」
「ああ」
 水神の杜という言葉に反応して夕香の顔色は失せた。それを聞いていたらしい嵐は蒼白
を通り越して土気色になっている。顔色が変化していないのはやせ我慢している月夜と水
神の杜を知らない莉那だけだった。
「わかったな?」
 教官はそう言うと五日後に管理棟前で待つと言い残してまた消えた。



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